最近出会った、いいなぁと思った景色たちを並べてみている。
何枚か並べたあとには、わたしにとっての文章の世界ってなんだろう
についてを気づいたら書くことになっていた。
もくじ
写真だけでは成り立たないわたしの世界
ものづくりが好きな、わたしの信頼している友人が手作りしてくれた机と椅子。
初夏の日差しが部屋の一角にはいり、照らされてできた朝のコーヒー時間の影。
なぜか着いたとたんに、心がぶわっと広がる宇野。
広い空のしたで、遠くに島をみながらきらきら揺れる海のひかり。
無条件で愛おしいチャイ子。
今日も目の前にある世界だけを懸命に見ている。
終点駅に着いたというだけで心がゆっくりと切りかわる、琴平駅。
いつかのお遍路さんのうしろ姿。
日常を残したくて、写真にはとりあえずおさめる。
自分で写真を撮っているものについては、この写真いいなぁと心から思えるものには残念ながらあまり出会えない。
ことばがあってくれるから、書いて添えてみる。
そうしてはじめて、わたしがいいなぁと思ったものがなんだったのかが、なんとなく伝わるような気がする。
自己満足の世界としての文章
読みやすい文章ではないけど、わたしはもともと文章を書くのが好きで、
ことばの並びだけで出来あがる世界が好きだ。
わたしが書いてしまう文章は、完全に自己満足の世界。
読み手にすぐに伝わる文章とされるような、テクニック的なもの、
たとえば短く言い切ったり順番を組み立てたり。
そういう文章を書こうとすると、一気に腰が重くなるタイプだ。
だから、きっと、なかなか読まれてはいない。
でもそれでいいと割り切っているところがある。
一方でビジネスとして、
伝えること を個人がしていかなければいけない立場もある。
読まれなくていいやと割り切れてしまうところは
やっかいな癖だなぁとつくづく思う。
きっと向いていない。
ことばにならない曖昧な世界を表現するための文章
最近、ことばを駆使しても、つらつら書き並べても
「惜しいんだけど、どんぴしゃではない」ということがどうやらあるらしい
ということに気がついてきた。
ことばにできないから絵をかく人
ことばにできないから歌をうたう人
ことばにできないから写真を撮る人
ことばにできないからものを作る人
今まで「ことばにできないものをつくる」という世界のことがあまりわからなかった。
けれど
たしかにことばにならないもの、ある。
「ことばにできない」というのはその人が文章を書くスキルがない、とかそういう問題の話でもない。
「ことばでは表せないものがある」
ということ。
むしろ、伝わる側にも受け取る側にも、
まったく同じものとして伝わることばって逆にないな と思うくらい。
それでも、ことばをただつらつら書く、
その曖昧さみたいなものを表現することが
わたしには必要なんだと気がついた。
なにかを伝えよう、という意図のものでもなく
完全に自己満足としてのことばの世界。
当たり前にしている、呼吸に似ている。
久しぶりに呼吸ができたみたいで、すっきりした。
読んでくれて、ありがとう。