『季節しごと』自然なリズムと不自然なリズムのこと

セミはまだまだないてるけれど、

風はすっかり秋めいてる。

今年もはじまった、いちじくのお手伝い。

 

祖父母が育てている いちじく。

例年、家族親戚で収穫から直売までをやっている。

 

 

お盆を過ぎたあたりから収穫がはじまって、10月のあたままで。

約2ヶ月、休みなしのノンストップで

家族みんなでおこなう、 季節の『いちじくしごと』。

 

この『いちじくしごと』が、わたしはとても好き。

 

まだ暗いうちからの収穫で感じる、空の移り変わり。

土の匂い。肌で感じる風。虫たちとの戦い。

祖父母との会話やふれあい。

喜んでうけとってくれるお客さん。

立派に実ったいちじくは、宝ものみたいだ。

 

季節が巡っていること、いのちが巡っていることを

全身で感じている。

 

 

思えば、去年の山小屋での暮らしもそうだった。

自然のなかに生きていることを、

全身で感じきって暮らしていた。

それがすごく心地よかった。

 

というか、人間として忘れてはいけない感覚だったことを

思い出した感じ。

 

いちじくも山小屋も、季節のしごと。

 

自然の営みのなかで、流れに逆らうことなく、

できる限りを尽くすところがとても好き。

 

 

約4年前、金融機関に勤めていたころのわたしは、

勤務時間の間に、外にでることがほとんどなかった。

 

1日の天気さえわからないことが、

わたしにはものすごくストレスだったんだなぁ と、今なら納得する。

 

巡っていることを、感じられないでいた。

 

ささいなことのなかに、きっと、

自分にしか見えない違和感の種が潜んでいるんだろうな。

 

窓も開かないような完璧に空調で管理された、”快適” と呼ばれる空間は、

実は 本当の意味での “快適”ではないのかもしれない。

 

その場所に一年の大半の時間を過ごすことを想像したとき、

なんだかわたしがいる場所ではないような気持ちが強くなった。

 

あのとき感じていた違和感がなんだったのか、

少しずつ、わかるようになってきた。

 

きっと、当時のわたしの働き方は、

自然のリズムから切り離された時間 だったのだとおもう。

 

あの場所でたしかに時間は流れているけれど、

わたしが求めていた時間の流れ、

求めていたリズムではなかった。

 

だから、季節の『いちじくしごと』をしていることに

心は軽さを取り戻す。

 

 

山小屋で働いていたとき、

自然の一部という感覚のなかで暮らすことの心地よさが、

生きることの安心感に繋がる。

 

 

そんなことをあらためて実感した。

 

自然なことか、不自然なことか。

自分にとって、どっちの感覚がするのか。

それを嗅ぎ分けるセンサーを 磨いていきたい。

 

あとはトライアンドエラーで確かめる。

 

誰といたい?何をしていたい?

それだって、

自分にとって自然であることを選ぶ立派な基準。

 

そうやって、日々の暮らしづくりを

ゆっくりと選択していきたい。

 

 

ちょうど昨年の今頃の、

山小屋での暮らしにも想いを馳せながら。

 

余談だけれど、だいたいいちじくの収穫ごろに、

転機と呼ばれるようなこともよく起きている。

ひらめきがあったり、嘆いていたり。不思議。