こんにちは!サーシャヨガのさなえです。
最近では旦那さんと『これからのこと、ふたりでカタチにしてやりたいね』とよく話しています。
先日迎えた誕生日の日も、ぎんちゃんが体調を崩していたので、
わたしもお家でゆっくりと過ごすことに。
ひとり考えものをするための時間が与えられたかのように、
わたし一人であーだこーだと考えていたものの、
いつも聞き役、アドバイス役になってくれるぎんちゃんがいないとすぐに煮詰まったり。
「わたし一人ではなんにもやる気がでないわー」と気分転換の下手さを痛感したり。
朝と夜の時間の使い方は上手になってきたんだけどなーと、言い訳してみたり。
わたしには長過ぎた、ひとりで考える時間だったようです。
SNSで、誕生日のメッセージをくれたことが本当に嬉しかった。
ひとりの時間を持てたおかげでたっぷりと時間があったので、
メッセージから浮かんでくることばをみつめ、選び、
丁寧にそのひとを浮かべながらお返事する時間がとても心地よかったなぁ。
ことばの可能性をとても感じたし、わたしもそれを信じている。
わたしが惹かれるひとや、逢いたいとおもうひとからは、
その人から伝わることばを超えた「なにか」がわたしに反応する。
話す「音」になるとなおさらのこと、音になる前の「文字」の状態であっても、反応することがある。
ことばの意味とか使い方だけでもなく、知識が多いとかでもなく、
そこに乗っている想いやエネルギーなのかもしないけど。
裏表のなさ、そんな感じだとおもう。
ことば以上に伝わるなにかがあることは、わたしが動くべきことの、
ひとつの目安。
そして一度でも逢ってみると、
さらにそのことばを超えた「なにか」と、わたしとの距離がぐっと近くなるように感じている。
逢うまえに感じたことばと
逢ったあと感じることばの届き方、入り方が変わってくる。
そして誕生日の夜、いつものようにひとりの時間をとって、もう寝ようかなと思っていたら、
わたしを導いてくれている大切なおふたりから、音声メッセージが届いた。
そのメッセージのことばは、いま、まさにわたしがお祈りをしていたこと
そのままだった。
『どうかこれから先、わたしに与えられた力を見ることから逃げず、
その力を使っていくことができますように』
おなじことを願ってくれるひとがいること、
その存在に感謝でいっぱいになった夜だった。
ひとは、「わたし」を信じることができるようになったとき、
「わたし」を生きると決めたとき
こんなにも強く優しくなれる、ということをわたしに教えてくれた方。
「お祈りなんて、心の底からできるの?」
「一体なにに願っているの?なにかなるの?」
そんなかつてのわたしが、この状況に一番びっくりしているだろうなぁ。笑
ただ、そのままでいてくれること、
そして、わたしがそのままでいることが、
きっと誰かの何かの役に立つと信じている。
さてさて、20代最後の1年がはじまってしまった。
大切に、そして丁寧に、生きたいなぁとおもう。